居住環境計画学

 

2050年の地域性。

                                     平林利文

 

 

【はじめに】

 

 9.11以降、我々の世界は不安に包まれ、それを解消しようとセキュリティへの志向が急速に高まっている。しかも、それは従来のような方法での秩序維持ではなく、アーキテクチャーによる人間のそれこそ“動物的”な管理によるセキュリティがもとめられ、かつ展開している。このように指摘するのは、サイバー法の専門家のローレンス・レッシグである。これを受けて、批評家の東浩紀は、従来の権力を「規律訓練型権力」と呼び、アーキテクチャーによる秩序維持を「環境管理型権力」と名づけた。ITをはじめとするテクノロジーの発達は我々を囲繞する環境となり、それは住居・職場・都市を問わずこの環境管理型権力によって支配される空間をより精緻なものにしている。以下、アーキテクチャーが人間を管理するという点から2050年の地域性がどのような風景を示すのか考えてみたい。

 

1,環境管理型権カ/環境管理型アーキテクチャーとは】

 

近代社会は、その秩序維持のために、国民国家という「想像の共同体」を作りあげ、「国民」として人々を統合した上で、その秩序を維持してきた。その役目を担っていたのが近代教育制度とイデオロギーであった。それは、社会を一つにまとめあげるための「大きな物語」、あるいはジャック・ラカンの言うところの「大文字の他者」である。こういった価値観を伝達し、徹底させるために、学校・軍隊・監獄が整備された、ということは既にミシェル・フーコーが指摘するところでもある。こういった、人々を統合し訓練を加えることによっての秩序維持の方法を、東浩紀の言葉をかりれば「規律訓練型」の権カと呼ぶことができる。この力の作用が即ち秩序維持であるとも言えた。例えば、フーコ一が『監獄の誕生』で例示したべンサムのパノプティコンも、上記のような規律訓練のコンテクストにおける建築的表象と言えるだろう。そして、そういったコンテクスストのなかで、イデオロギーも秩序維持のための共通の枠組み、即ち先に挙げた「大きな物語」あるいは「大文字の他者」もしくは大澤真幸の言う「第三の審級」として、機能していたのである。

 ところが、現在に至って上記のような方法での秩序維持が相当に困難になってきている。'70~80年代、英米では福祉国家としての政策が半ば破綻をきたしており、それをいわゆるネオリベ的政策でもって収拾を図ろうと試みた。一般的にレガノミクス・サッチャリズムと言われる政策である。その結果、'90年代を通じ現在に至るまでに、弱者の切り捨て、貧富の差の拡大・固定化が進行し、社会の荒廃が進んだ。それは、それまでの社会において公共圏を支えていた「信頼」が、そしてそれを繋ぎ留めていた「大きな物語」に依拠していた価値観が共に崩壊したことを意味していた。換言すれば、それは、それまで秩序維持の機能を果たしてきた「規律訓練型権力」が機能不全に陥り、社会が液状化してきていることを示すことに他ならない。このような状況は、後述するように、社会に漠たる不安を醸成することになり、セキュリティへの要請を高め、「環境管理型権力」=アーキテクチャーへの依存とその出来を招来することになる。そして、9・11におけるWTCの崩壊という象徴的事件により、そのような液状化と不安の臨界点が示されてしまった。宮台真司は、これで社会の底が抜け公共圏を根幹で支える「信頼」がゆるがされたと指摘する。繰り返される、ジャンボ機が突入し崩壊するWTCの映像は、人心を自由よりもセキュリティを、寛容よりも監視と排除をという方向へと加速させた。もはや、他人は価値観を同じうする隣人ではなく、死を恐れないテロリストかもしれないのだ。そんな疑心暗鬼が横溢してしまったのである。(このような状況を東浩紀は“不安のインフレスパイラル”と卓抜な呼称を与えている)

 以上のような、不安と疑心暗鬼が支配するコンテクストにおいて、「信頼」に依存した秩序よりも、物理的なシステムによるセキュリティが要請されているのである。そこで、環境管理型権力とは何かということであるが、それは、環境としてのアーキテクチャーが一種のパワーとして人問をその意図するところに沿うように動かし管理することを意味し、そしてまたそのような設備・システム(=ア一キテクチャ一)が我々を囲繞する状況でもあるのだ。このことは、設計次第で人々の行動を制御することができ、それ自身が支配の権カになってしまうことを意味する。例えば、卑近な例として、マクドナルドの硬い椅子があげられる。椅子を硬くすることにより客の回転率を高め、動きをコントロールすることができる。あるいは、監視力メラ然り。このような、人問の行動を管理・コントロールするアーキテクチャーが、上記のようなセキュリティ意識の高まりの中で急速に二一ズを増し、実際に設置も増加しているのである。さらに、こういったアーキテクチャーが、マクドナルドの椅子の例のように権力もしくはコントロールされていると感じさせない、即ち無意識化されており、その上、特に昨今はIT技術をはじめとする先端テクノロジーによって精緻化が進展し、それがセキュリティを第一の目的として機能しているのである。監視カメラの氾濫する歌舞伎町やそれによる個人照会、高速道路のNシステム、ICタグを応用したゲイテッド・コミュニティー、あるいは公共空間での大雑把なゾーニングではなく精緻化された種々のフィルタリングなどが、アーキテクチャーとして、セキュリティの為に次々と構想され構築されている。それに加えて、五十嵐太郎の指摘するところによれば、このセキュリティと同じコンテクストで、「排除」という観点からのアーキテクチャーも非常に目立つようになってきている。ゲイテッド・コミュニティーやフィルタリングといった技術も「排除」という機能を果たすが、それら以外にも「排除」の為のアーキテクチャーが顕著になってきているのである。一例として、各地にある手すりをつけたベンチ(図1・2)や、新宿駅西口の地下道に設置されている円筒を斜に切った形のオブジェ(図3)などが挙げられよう。これらは一体何を目的として設置されているのであろうか。「新宿西口」ということで既に明白であると思うが、言うまでもなくそれはホームレスの排除に他ならない。ベンチに手すりをつけることによりホームレス(あるいは酔っ払い)が寝そべることを妨害し、地下街の空隙にオブジェ(図3・4)を置くことによりホームレスの居座りを排除する。このような、ローテクの排除系のパブリックアートや公共型ファニチュアは確実に増えているのである。(以上のアーキテクチャーは主として日本のことであるが、マイク・デイヴィス『要塞都市LA』によればロサンゼルスではこのような「排除」のアーキテクチャーが満載だそうである。浮浪者が寝難い丸いベンチ、野宿を排除する為に不定期に放水するスプリンクラーのある公園、ゴミ漁り防止の為の忍び返しのついたゴミ箱etc.)

 以上見てきたような、セキュリティ・監視・排除・管理・制御・制限といった環境管理型の権力/アーキテクチャーが我々を囲繞しているわけだが、このことは一体何を意味しているのであろう。五十嵐太郎によれば、それは自衛への関心から警察のまなざしそのものが内在化されているということであり、マイク・デイヴィスによれば、90年代の都市計画の時代精神がセキュリティへの強迫観念をもち空間が軍国主義化しているということになろう。これらの指摘の適否はひとまず措くとしても、ここまででみてきたことで、二つのことが指摘できるのではないかと思う。ひとつは、マクドナルドの硬い椅子の例に見られるような管理の無意識化である。本人の“主体的”な判断で席を離れたと思えてもその実アーキテクチャーによって“他律的”にコントロールされていて、その人本人は全くそのことに気付かないということである。ジョージ・オーウェルの『1984年』に出てくる“ビッグ・ブラザー”的な分かりやすい上からの支配でなく、内在化されている点が厄介なのである。もう一つは、市民による自発的なセキュリティと自由のトレードオフの進行という事態である。監視カメラの爆発的な増加は、当然警察権力による設置もあるのだが、一方では歌舞伎町のように市民の自発的要請によって設置されているところも少なくない(東京大学も!)。つい最近も、鹿児島でとある商店街が多数の監視カメラを設置して話題になった。さらに、これらに加えて、重要であると思われるのは、このような事態が実際のアーキテクチャーはもとよりエートスとしてもグローバルな規模で展開し、特に9.11以降などは、地域差がほとんど看取されなくなっているのではないかと思えるほどに、あまねく浸透してしまったということである。一方で、奇妙に思えるようなことではあるが、このようなグローバルな規模でのセキュリティ志向が、ナショナリズムの強化というこの上なくローカルな舞台装置を要請しているということである。言い換えると、セキュリティの為に国家が要請され、ナショナリズムが同時に鼓吹されるということである。しかも、テッサ・モーリス=鈴木によれば(些かトートロジーじみてはいるが)このようなローカルな国家の要請とナショナリズムの吹け上がりはグローバルな規模で展開している現象であるということである。これが、20世紀末から21世紀初頭の世界と地域である。2050年は、この事態がどちらにぶれるのか容易には判断しかねるが、テクノロジーの発達を鑑みる限り、ネガティヴな事態しか思いつかないのが現状である。宮台真司の言葉をかりれば、“自由な新世紀、不自由なあなた”的な状況で、アーキテクチャーはITとますます融合し、この状況を後押しするのであろう。

図1.                  図2.

 

        

3.                 図4.(以上、五十嵐太郎『戦争と建築』(2003晶文社)より)

 

【2.都市のテーマパーク化とセキュリティ】

 

 マイケル・ソーキンはテーマパークが90年代において都市のモデルになっていることを論じているが、それは恵比寿ガーデンプレイス(図1)やヴィーナス・フォート(図2)あるいはカレッタ汐留(図3)のような楽しい都市空間が増えたことを想起させるが、それはそれでその通りなのではあるが、彼の要点はそこにはない。

 

       

図1.                    図2

   

図3.                   図4.(以上各HPより)

 

ソーキンの言うテーマパーク化とは、お気楽な「ディズニーランダイゼーション」ではなく、他者を排除する囲われた安全な人工環境を意味していることである。先に述べたような、都市のセキュリティ志向は、このテーマパークが一つの理想形として想定される。ディズニーランド(図4.)に象徴されるテーマパークとは、五十嵐太郎によればそれは高い入場料という“フィルター”通過するものだけが安全を享受する犯罪のない都市に他ならない。カリフォルニアのディズニーランドとフロリダのディズニーワールドが、共に実際には極めて犯罪率の高い地域にあることは象徴的である。監視され、浄化され、安全で、透明な極めて人工的な街、それがテーマパークである。先に挙げたようなセキュリティの志向を極限まで純化させた、環境管理型権力/アーキテクチャーの結晶のような、一種の“ユートピア”なのである。しかも、そこは様々なコストを意識させない、即ち無意識化させるアーキテクチャーでもあるのだ。それには高い入場料(そこに入るには入場料は当然視されているので当然意識されない)も含めて、複数のコストのレイヤーが不可視化されている。そのコストとは、ホームレス・犯罪・マイノリティ・環境破壊などの実際の都市では顕在化している問題であり、先に挙げた特に排除系のアーキテクチャーは、このコストを意識させなくなってしまい、結果問題に対して鈍麻してしまうのであるから、当然社会変革の意識も醸成されないのである。

このような、都市全体が環境管理型権力/アーキテクチャーに覆われたテーマパーク化した世界が、地域性を越えて、世界のまさに“グローバルスタンダード”になりかねないのが、2050年の都市ではなかろうか。そして、それは、繰り返しになるが、“ビッグ・ブラザー”から押し付けられるのではなく、我々自身が自ら求めているのかもしれないのである。

 

 

主要参考文献

 

東浩紀 「情報自由論」(2002.7~2003.10『中央公論』連載)

東浩紀・大澤真幸 『自由を考える』(2003 日本放送出版協会)

五十嵐太郎 『終わりの建築/始まりの建築―ポストラディカリズムの建築と言説』(2001 INAX出版)

五十嵐太郎 『戦争と建築』(2003 晶文社)

大澤真幸 『文明の内なる衝突』(2002 日本放送出版協会)

姜尚中・宮台真司 『挑発する知』(2003 双風舎)

宮台真司 『まぼろしの郊外』(2000 朝日文庫)