槇文彦における部屋性の獲得 -----風の丘葬祭場を見て------- 1997

中津にて

風の丘葬祭場を探して道路地図を見ながら,中津市郊外の幹線を車でを走らせていると、遠くの低い丘の頂の木立の間から傾いた八角柱の斎場が見えてきた。それを目指してゆるやかな孤を描くアプローチ道路を登りきると、遠望できた斎場が目の前に現れるが、間近で見ると意外に背は低くキュービックなプロポーション。この建築が作る凛とした空気があたりを支配している。

最初に驚かされたのが、槇文彦が外装に煉瓦積み、コルテン鋼などの濃色でしかも粗面の重量感のある素材を使っていることである。

到着する人達を車寄せの庇が低く出迎え、その向こうには笹が植えられた中庭が見透かせる。この中庭を右にみながら、まっすぐ庇の下を進めば火葬棟に至る。この通路がわずかに下っているは、悲しみの中にいる人達に対する心遣いだろうか。一方、車寄せの庇に沿って右に向かい、レンガ貼りの壁に穿たれた開口をくぐると、視界は公園に開け、左右の「斎場」と「待ち合い棟」に到達する。スケール、デティール、素材の選択のいずれも住宅的なスケール感を作りあげている。

こうした住宅的な扱いは内部に入っても裏切られない。火葬棟の炉前ホールではコンクリート打放しと灰色の御影石が用いられているが、その他の部屋はほとんど粗面の左官材料が用いられ、待ち合い棟ではこれに木製の生地仕上げの額縁や格子が加えられている。

火葬棟は、薄く水を張った一辺10.8mの正方形の中庭の回りをめぐり、外への視線を閉ざした静謐な空間である。炉室の扉周りは極めてシンプルで、ダークグレーの御影石の壁面に、寂び色の1枚の鉄扉を配したものである。床は小粒の玉石入りのコンクリートをショットブラストした、たたきの土間のような風合いである。

火葬棟と三角形の平面を持つ待ち合い棟のあいだにもレベル差があり、堅のスリットから差すほの暗い光あいまって移行の儀式性の演出となっている。待ち合い棟のホールは角度が振られた二つの壁面と円弧の壁面に囲まれ、半月型の吹きぬけを介して小さなメザニン、そこに刺さるような直線的な小さな階段と構成は動的である。火葬棟の静けさに対比されて、和やかな雰囲気が醸し出されている。ここでもすべてが小ぶりに、住宅的にできている。周囲の和室仕立ての待ち合い室からは先上がりの庭に大きく開かれている。

斎場に向かうときは、待ち合い棟から移動しても車寄せから直接入っても、壁、天井とも小幅板型枠の打放しコンクリートで仕上げられ、庭に開いた回廊を通らなければならない。斎場の庭側には高さ70センチの地窓(窓の外には水盤が設けられ反射光がゆらゆらと内部に映える仕掛)、天井には4つの円形のトップライト、壁の折れ目に切られた細い1本のスリット、入り口の格子戸の計4ヶ所から十分抑制された光が取り入れられ、瞑想的な空間になっている。外観では8角柱は傾いていたが、内部では風除室の矩形のマッスが置かれて、ひとつの面だけが直立し面を形成することによって不安定な印象は全くなく、むしろ祭壇側の壁が手前に倒れこんで、包まれた感じを作り出している。外壁の煉瓦にも驚いたが、こんなに暗い空間を槇が作ったということも新鮮であった。

車を出していただいたS氏ご夫妻と本当にいい建築だったと感嘆のため息をつきながら、帰路についた。早春の満たされた一日であった。

繋ぎの空間

最近、この作品を含めて槇文彦の近作を幾つか見た。そして小品である「キリストの教会」や「神奈川大学16号館」においても同じように充実した建築的感動を味わうことができた。それらは今までの槇の建築とはどこか違うところがあるように感じた。

槇の建築のインテリアは、ていねいに作られ、多様性があり、様々な可能性が追求されていることは異論のないことであろう。しかし、それを前提に考えても、私が見た近作ではインテリアに今までに無い濃密な空間性、あるいは「部屋性」が明確になってきているという印象をもった。「部屋性」とは、ここでは内部空間のまとまり、凝集性、完結性といった意味で使っている。逆に言えば、部屋と繋ぎの空間を比べた場合、これまでの作品では、繋ぎの空間のほうにはるかに独創性と魅力と圧倒的な存在感が感じられたということである。

槇の建築を振り返ると分かるように、その真骨頂は繋ぎの空間にある。例えば、スパイラルでは、大きく円弧を描きながら半円形のアトリウムを上昇するランプにしても青山通り側のエレベーションを特徴づけ、都市の公共的空間の新しいあり方を提示したエスプラナードにしても、それらは繋ぎの空間である。それに比べると、エスプラナードを上がりきったホワイエやその奥のスパイラルホールも高いレベルのデザインであるが、建築家はアトリウムやエスプラナードほどのプライオリティを与えただろうか。また、京都近代美術館の見せ場は正面の大階段であり、展示室はある種の実務的なわりきり(計画論的に正しい判断であるとしても)が感じられる。岩崎美術館では副動線である階段がプランの主軸をなし、ドラマチックな見せ場になっており、霧島国際音楽ホールのホワイエでは、ホワイエという部屋が作られるのではなく、ホールを周りこんでゆったりと上昇する広い廊下が充てられる。また、国際聖マリア学園や加藤学園では廊下が広げられ、生徒の交流の場として豊かな表情を与えることに、設計のエネルギーが注がれていることがわかる。槇の代表作であるヒルサイドテラスにしても、その価値はつまるところ、街路に連続する外部空間が敷地のなか、さらには建物の中にまで連続する、襞性の高い都市の表層を形成していることにあろう。つまり、それらは繋ぎの空間のアーバンデザイン的展開であり、それに比して建物は極めて抑制された表情である。初期の棟は今となってはアノニマスにさえ見える。

槇のスケッチ集である、『未完の形象』は建築家の興味のあり様を示して興味深い。槇は赤鉛筆やボールペンでスケッチを描くが、時に黄色い色鉛筆でプランの一部を着色することがある。そしてそれは大抵、繋ぎの空間であり、部屋は白いままであることが多い。

「風の丘葬祭場」は火葬棟、待ち合い棟、斎場の三棟と二つの外部空間からなるが、それらの間に陰影のある繋ぎの空間が用意されている。例えば、回廊で囲まれたエントランスコートと火葬棟の繋ぎの空間は、火葬棟の周縁を構成する小空間群の一つが充てられている。中庭に開いた半屋外空間で、回廊から滑らかに繋がっているが、同時に天井、壁とも木製小幅板型枠による打放しコンクリートで仕上げられ、象徴的な柱とトップライトがオフセンターで据えられて明確な個性を持った一つの部屋に仕立てられている(因みに、エントランスコート全体が前庭と火葬棟のあいだのつなぎの空間になっているという入れ子的関係も潜ませてある)。

槇において、繋ぎの空間への関心が初期からのものであることは、1964年に出版された研究的著作(「郡像形」”Investigations in the Collective Form”) が、「集合体 3つのパラダイム」と「集合体における結接」の二つの章からなることに明瞭に現れている。槇は次のように述べている「アーバンデザインは常に、個別の事物の間に意味のある結接点を与えるという問題を扱ってきた」(中村研一訳、JA9404,266頁)。槇にあっては、アーバンデザインでの発想が建築観に影響を与えているのではないか。アーバンデザインを現代の問題として取り組めば、おのずから、未来に対する不確定性と部分の自由の問題を取りあつかわなければならない。そこでは繋ぎ方のコントロールを通して都市形態を誘導する戦略が導き出されるのは自然なことである。プログラムとクライアントの要求に誠意を以ってあたれば、建築設計でさえも有効な戦略はアーバンデザインに似てくるかもしれない。

ただし、繋ぎの空間を建築設計の主要なテーマにすることはひとり槇の関心事ではない。近代建築は空間の連続性をめぐって展開してきたのであり、空間をどう繋ぐかは主要な課題であり、繋ぎの空間と部屋性は対立的に捉えられてきた。ライトは「部屋性」を否定し、いわば建築全体を繋ぎの空間とし、流動する空間を追求した。コルビジェは、動きを視覚化し、動線の強調するためにランプを平面の中心に据え、階段をオブジェ化している。

そもそも繋ぎの空間への着目は、建築や都市の設計を関係論でとらえようということである。すなわち、単純化したモデルで説明すれば、全体は繋ぎの空間と要素(部分)に分けられ、全体の性格を決めるのは繋ぎの空間の形態、つまり要素間の関係のさせ方であるとするのである。それが近代建築の部分と全体像のイメージであったのではないか。ところが、この論理からは要素自体を性格づけることができないことになる。なぜなら、その要素たる部分も、それより下位の部分と繋ぎの空間の関係で捉えられるという入れ子構造になるからである。例えば、近代都市計画は、敷地のなかの建物(部分)を規定する論理が貧弱であり、これは今日の景観問題に対して無力であることに繋がる。近代建築の公式の発想には、個をどうするか、平たく言えば部屋をどのように性格付けるかという点で明確な論理を持ち合わせていなかったように思われる。

このように槇が考えたかどうかは分からない、結果としての作品をみる限り、槇は全体を連続する一つの空間に還元するという方向もとらなかったが、また、ルイ・カーンのように「部屋」の意味の復権を図り、建築全体を「部屋」の集合にすることもなかった。この点で、よく同類と分類される谷口吉生とは指向性が違うというべきであろう。谷口は全体を、分節させながらも次々と連続してゆく空間として構想し、基本的に「部屋」をつくらない。

槇は、このような矛盾に直面してどちらかを取ることを注意深く避ける。いわば宙吊りの状態を引き受けようとする。このような態度は、槇の世界認識に根差している。例えば、1972年には「私の結論は、この世の中というものが永遠に矛盾を内蔵するものである以上、その反映である建築もまた矛盾そのものでなければならない。ただ重要なことは、ひとり一人の建築家がとりうる立場とは、包括的ではありえず、肉体的・時間的・境遇的に、きわめて玄的した形で矛盾を切りとることになるのではないかと思う。そして建築の意味はその切り取られ方に存在するのである。」(『記憶の形象』p60)と述べている。だから、槇の設計方法には、そもそも困難が待ち受けていると言える。このような事情は、かつて吉村順三の軽井沢の山荘を高く評価した折に、ベンチューリの「困難な全体」という用語を共感を持って引用していることにも示されている。

部屋性の獲得

槇文彦は、繋ぎの空間に対する関心を建築家としての活動の初期から明確にしてきたのに対して、部屋性への関心はそれよりは遅れてやってきたようである。

槇が明確に部屋性ヘの関心を最初に作品化したのは恐らく「トヨタ鞍が池記念館」(1974)だったのではないか(ちなみに、「風の丘葬祭場」は「トヨタ鞍が池記念館」(1974)の血を直接引く建物であろう)。ここでは、主要な部屋の天井に、入れ子状の立体的なパターンを与えて、部屋としてのまとまりを作り出そうとしている。その後も、部屋性の獲得は部分への対称性の使用、特定のイメージを連想させるようなエレメント、例えば照明器具などの積極的な導入、仕上げ素材ヘの関心と精妙なデティールの追求などが試みられ、様々な試みがなされてきた。しかし、槇にとっての決定的な画期は「藤沢市秋葉台文化体育館」(1984)で訪れたのではないだろうか。ここでは、繋ぎの空間であり、数奇屋的な庇と開口処理を特徴とする玄関ホールを、二つの体育館、特に大体育館が空間の濃度において凌駕している。それは「到達する形態を単に外側から決めていくのではなく、内側からふくらませたり、ひっこませたりすることによってある形態に到達した」(JA9404,4頁)形態として理解できる。その後、槇のレパートリーに体育館にコンサートホールが加わり、この「内側から発想する」形態というテーマをめぐって様々な試みがなされるのである。

槇はディティールをポスト工業社会における「物質性の表現」あるいは「手仕事の刻印」と位置付けている。そこでも、貧者の美学としてスタートし、機械の生産に美学的イメージを求めるモダニズムが高度な技巧によって表現されるという皮肉が起きている。例えばテピアを構成する「板」の端部は、現実的厚みを消去するために鋭角に仕上げられているのだが、その外観のシンプルな見えは、実は内部では技術的に贅を尽くした処理によってはじめて実現されている。それは草案茶室が洗練を求めて辿った道と似ており、レイトモダニズムのありうべき方向の一つを示していよう。

しかし槇はそこにだけ留まっていない。この3作品では連想を生む要素は限定されてきており、また、ディテールも簡素であるだけでなく空間表現に強く参加している。例えば、「キリストの教会」における天井はオットー・ワグナーのシュタインホーフの教会の天井との共通性を感じさせるが、天井を覆うダイアゴナルな飾り縁は、天井面の皮膜性を強調している。高度な技巧性と確かな空間性の共存が認められ、日本の現代建築ではまれな事例となっている。両側の傾いた壁もこの皮膜性に貢献しているのみならず、断面形の三味線の撥のような不思議な形は、この作品を北欧趣味以上のものにしている。そしてそれらによって、このチャペルは強い部屋性を獲得している。

槇はよく知られているように、基本的には明るく透明な空間を好み、色彩は白とグレーの間のスペクトラムのなかにある。材料も硬質で鈍いながらも反射性の材料を好む。まさに「反射(滑)・明・乾」を基本とするモダニズムの形態のボキャブラリーの洗練者である。ところが、「風の丘葬祭場」ではほの暗い空間が現れ、室内の仕上げに粗面の材料が多用されている。このような暗さは「岩崎美術館」(1979)に兆しがあり、「岩崎美術工芸館」(1987)で意識的に認めらるものであり、粗面の大々的な外壁への使用は同じ中津に建つ「中津市立小幡記念図書館」で試みられている。それらの実験の成果が「風の丘葬祭場」に結実している。暗さは、明るい部分との対比を作り出し、部屋の囲われ感を強めているだけでなく、民家の土間や寺の庫裏などの遠い記憶のなかの「鈍い光」を思い起こさせてくれる。それは日本の伝統的な住宅の表面の特性「吸収(粗)・暗・湿」に限りなく近い。

ここで、槇がモダニズムの原理の拡張の中で「部屋性」を考える方法で私にとって興味深いことが二つある。一つは、周縁のモダニズムが呼び込まれていることであり、もう一つは<家>のイメージが有効に働いていることである。

槇は、これまでコルビジェやダイカー、アイクといった近代建築の中心に言及してきた。しかし、最近の作品にはシザやアアルト、アスプルンドあるいはオットーワグナーそして日本のモダニストの先達(特に住宅作品)など、いわば周縁のモダニズムというべき建築が参照されているように見える。普遍的な原理としてモダニズムを捉えるという見方から一歩を進め、モダニズムも一つの地方様式であるという認識があるのではないか。そして、部屋性に注目した時、周縁のモダニズムは沃野となってわれわれの前に立ち現れてくる。

槇は好んで<家>のイメージについて語り、多くの作品が<家>をモデルとして構想されている。それが、作品に人間的繋がりに対する信頼を感じさせ、共同性にある種の具体性を示唆している秘密のように思える。そして同時に槇は<家>のイメージを語るとき部屋性を獲得するための戦略的意味を考慮しているのではないか。この葬祭場でも、自己の姿を失った現代日本の葬祭場に、<家>のイメージが新しい生命を吹き込んでいる。

コレクティブ・コンシャスネス

槇文彦は、建築家の役割を規定して次のように述べている。「建築は、そういった意味で、創造とはいいながら一種のディスカバリーなんですね。(中略)その時代の社会が潜在的に期待していても実際つくれないもの、描けないものを描いてみせる。(中略)一番われわれが到達したいのは、コレクティブ・コンシャスネスというか、コレクティブ・イマジネーションを顕にしていくことです」(三宅理一との対談での発言、建築文化9007P38)として「社会の集団の深層心理」の実現のための媒介者たらんこと、そして槇が確かな手応えを掴んでいることを表明している。

槇はモダニズムを継承しその可能性を拡張させていると自他ともに認めているが、多くの場合、造形の問題として語られている。しかし、社会的レベルで言えば、モダニズムが扱って来なかったビルディングタイプあるいは新たに現れたビルディングタイプに形を与えること、あるいはそれによって文化を再定義することもまた、モダニズムの可能性を追求する上では必用な作業である。巨匠の域に達して表現の語彙を限定するどころか、なお拡大しようとするのも作家としての旺盛さを示しているだけではなく、都市デザイナーとしての責任感に発していると私は見ている。

また、槇が矛盾を引き受け、建築の表現を曖昧な状態に置くのもその根には、個人的な性向もあろうが、同時に現代社会に対して社会学者に近いまなざしを向け、現実的で冷静な観察とそれが突きつける要請に誠実であろうとすることによっている。不思議なことに、都市に付いて多くの発言があるにもかかわらず、槇を論じたものに都市デザイナーとしての側面は余り言及されることがない。槇は、確かに趣味の良さが際立ち、およそ都市計画などという無粋で政治的な行為とも、また社会性などという所帯染みた概念とも無縁である様に見えるかもしれない。

しかし、槇の作る建築が一部の高尚な趣味の持ち主だけを対象にしたもので、ポピュラリティーに欠けるかというと必ずしも正しくはない。その好例は、「藤沢市秋葉台文化体育館」であろう。この体育館を最初に見学したときは、中庸な表現を好む槇にしては表現的傾向の強さが印象的であり、私には個人的な表現にしか見えなかった。ところが、この体育館はその後の公共体育館のモデルとなり、今や全国の中小都市の郊外風景の中に唐突にもっこりしたステンレス葺きのシルエットを見出すようになってしまった。

いまから思えば、この時代はスポーツのありかたが、体育という教練的な色彩から、フィットネスという成熟社会における時間消費型の娯楽に大きく変わった時期である。秋葉台文化体育館は、それまでの工場あるいは格納庫のような「機能的な施設」に代えて、豊かな内部空間を持ち象徴性を備えた建築を示したのである。まさに「その時代の社会が潜在的に期待」していた形だったから、これほどに流布したのである。

今回この建物の見学にあたって、忘れずに見なければと思って出かけたところの一つに炉室の扉まわりがあった。何故、炉室の扉かといえば、最近の葬祭場で納得のゆく扱いをみたことがないからである。葬祭場は完全に自己のあるべき形を見失ってしまった典型的なビルディングタイプの一つであろう。現代の葬祭場には、おごそかで格調のある場所であると同時に、「焼き場」の陰鬱なイメージを払拭するという要請があるようである。その結果、外観は豪華なコミュニティーセンターになり、炉前ホールはバブル時代のオフィスビルのエレベーターホールとなる(確かに棺桶は人のサイズに近く、閉めたら昇るところが似ている)。つまり特定の「らしさ」が忌避されているのであり、エレベーターの扉に似てしまうところに現代建築の抱える滑稽さが集約されている。

槇は「風の丘葬祭場」で、プログラムが要請する内容に真摯に答えただけでなく、現代においてあやふやになってしまった葬祭のための儀式空間を建築家の用語法で再定義している。それもまた、現代におけるパブリック性というものを実体化してゆく過程なのであり、ひいては現代日本の文化に独自の相貌を与えようとする試みであると言っても良い。

この「風の丘葬祭場」の既視感のある素材と空間構成は、現代建築に投げかけている大きな意味を理解することを妨げるかもしれないが、これは槇文彦の建築的思考の深化と円熟を示す名品である。

注;同様な例として、吉田五十八の新数奇屋の和風商業施設との関係、丹下の香川県庁舎と全国の自治体庁舎あるいは安藤の打放しによるファション系の商店建築のをあげることができる。


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